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○○は××

 

殆どのことは○○は××

という、主語と述語のようなもので表すようになっている

 

というこの構造はなぜなのか。

 

英語にも中国語にも、何らかの主語のようなものがあって、

それをが何であるか、という述語のようなものがある。

 

タイム・イズ・マネー 時は金なり 一刻千金

 

どんな言葉の地域にうまれてもそんな感覚が身につくのが人間のさがなのか。

Cでもアセンブリでもオブジェクトでもなんかがあって、

それがどうするかを書く

 

何かがあって、それが何かを説明する

というこの形態自体に、

違う形はないのだろうか。

 

言葉にするからそうなってしまうのではないか。

絵だったら、

音だったら、

 

ピカソの絵を見て、

ああ、これは××だな とか、

モーツァルトを聞いて

ああ、これって××だな とか、

 

言葉に置き換えることはできるけれど、

実は言葉ではすくい取れていない何かが存在するように思う。

 

私が言葉を使ってるから、今ある枠組みで捉えようとするから、
全くその域から出ることはできない

 

しかし、本能とも呼ぶべき場所には、

言葉なしにそれを感知しているのではないか

 

視覚は電磁波、聴覚は音波、味覚・嗅覚は化学物質、触覚は摩擦や硬さを

それぞれ電気的な信号に乗せて脳に送っているが、

 

それらを統括するシステムとしての

ヒトの意識や無意識の中には、

今ある言葉のようなものでは表せないようなものがあるように思える。

 

なんだかそういう、しっかり表せないものに会った時に、

比喩とか使って知ったような気分になる。

 

 

目の見えないヒトに空の青さをどう伝えればよいのか、

盲ろう者に、モーツァルトの素晴らしさをどう伝えればよいのか、

 

 

 

ネットが発達して、何でも情報が手に入る時代で、

本当に学ぶべきは、こんなことばにならないことの中にあるように思う

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