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対話とは将棋に似ている

将棋を指したことはあるだろうか、

 

conversationという盤面があって、

episodeという駒がある。

ideaを心に浮かべて

intentをもって駒を動かし、

互いのepisodeの動きでintentを理解しつつ、

自分のideaをquestionして、

互いにanswerしていく。

相手のepisodeを捉えると、

自分のwordとしてreturnしていく。

 

もちろん会話は戦いなわけではないが、

将棋のやり取りを見ていて、そんなことを思った。

 

一本の線ではなく、

開放的で、捉えどころが様々あることに

近い匂いを感じたのかもしれない。

見えるものと見えないもの

美と心

 

美術とは心を映す鏡とはよく言われることであるが、

果たして美から作者の心を読み取ることはできるのか、

 

文学作品でも美術品でも建築物でも、

作者理解のためには、まず時代背景・作者の環境を探る必要がある、

と言われるが、

 

「これはどう受け取られようと構わない、

 その受け取り方も含めて作品なのだ」

 

というタイプのものもあるだろう。

「作者の気持ちを考えよう」という問はタブー視されている

 

情操教育とは、そのこころ自体を教育することが目的だが、

直接的にこころをいじることはできないから、

美術品を使ったり、音楽を使ったり、言葉を使ったりする。

 

よくわからないものの美しさ、

字面からか、造形からか、色彩からか、音色からか

なんらか感じ取れる不思議さのようなもの、

 

それ自体にももちろん十分な価値はあるだろう。

 

しかし

雰囲気を越えて、伝わるべき心を欠かしてはならない。

 

実のところ、

表現するまでもなく、まさに雰囲気として流出するものなのだ。

 

感じる力でも、表す力でもない、

研ぎ澄ますのは、行いそのものであると。

 私にとって、世界の大部分は関係のないことだ、自分に関係のあることだけが関係ある。自分に関係ないことは関係ない。というのは当然のことだが、自分の脳で起こっていることや、周囲の人の脳で起こっていることは、ほぼ、世界の人の脳で起こっていることと類似している。異文化という言葉があるが、文化が異なったのはその土地がたまたま暖かかったからだ、石油が出たからだ、地震が多かったからだ、何万年も受け継がれてきた、脳の本質的な部分は大差ない。

 世界的な大虐殺や兵器の開発備蓄威嚇テロに比べれば、戦争中ではない国のいじめや喧嘩モラハラ、躁鬱や自殺なんかは大した問題ではないかも知れない。アイヒマン実験で有名だが、人は置かれた状況でいかようにもなる。

 地球の裏側で起きていることは、その人にとって無関係だが、原理や本質には似ているところがある。

待機する人。待機させる人。

待機児童への声が多い。

 

自分の子供が生まれたが、通わせる保育園がない人。

自分の関係者に保育園が必要ない人。

保育園を作るための土地がない行政。

しょうがなく、作ったばかりの公園の一部を保育園にする案(確定版)。

保育園を作る説明会。

反対する人の意見

・公園がなくなる

・ほかに場所ある

・うるさい

・地価が下がる

・送迎渋滞

・保育園あるところで働くべき

・迷惑料

 

必要な人の意見

・公園が最有力候補

・公園の一部

・その地域でしか働けない

・子供は国の未来だ

 

どの意見にも一理くらいずつある。

どっちも被害者だが、同時にどっちも図々しい。

 

問題は保育園をたてるかどうかではない。

日本が一極集中しすぎていることに問題がある。

中央が便利すぎるのだ。

 

人が多い

→職、票が集まる

→求人、地域に有利な政策

→人が集中する

 

電車だ新幹線だと言っても、

本当に便利なのは中央だ。

中央の人の何割が、田舎の不便さで生きられるかは不明だが、

人は職や便利さを求めて中央へ集まる。

人が中央にいるから、企業が集まり、有利な政治が行われる。

さらに職と便利さを求めて中央に人が集まる。

 

人が順調に集まっていった結果、

たまたま保育園が足りなくなった。

老人ホームでも小学校でもスーパーでもコンビニでも、

駅でも図書館でも裁判所でもでも公園でも病院でもない。

 

可能性としては、小学校や中学校が足りなくなることも考えられるが、

人を補充して教室を開けば少々は無理がきくのか、学区が広くとれるのか。

 

老人ホームもスーパーも病院も、大抵のものは

儲かるから誰かが建てる。狭い土地を買い取ってでも建てる。割に合う限り。

 

保育園は儲からないのだ。

だから、役所のようなところが建てるしかない。

同じようなことはごみ処理施設にも言える。

 

ごみを処理して儲かるような仕組みがないように、

子供を育てて直接的に儲かる仕組みはない。

 

企業が自分の区にいることは有利だ。それだけ税収があがる。

企業誘致のためにあらゆる策を講じてもよい。儲かるから。

だが、そこに勤めている人の子供の事情など知ったことではないのだ。

その子供がいなくたって、外で育った労働者がまた来てくれるから。

今その子供を育てている人も外から来たのだ。

 

一方地方では、

子供が減っている。

職がないから、中央へ行くしかないのだ。

子供の場所はあるが、親の場所がない。

 

企業が地方でいることのメリットを

政治や行政が無理にでも作らなければ、

このねじれは解消されない。

働く人は子育てをせず、子育てをする人は働かない

という図式に異議がなければ、そういう方法もあるかもしれない。

働く人の遺伝子は残らないが。

 

 

もう一度待機する人と待機するのに賛成な人の意見に戻ると

・保育園ができると今までの便利さが減る。

→人口の過密度に対する保育園の程度が足りていない。

たまたま先に住んでいたというだけで、「その場所の便利さを

減らされるのはまっぴらだ。」というなら、他の場所に住めばいい。

過密度に対する不便さが付きまとうことを理解すべし。

地方の人は、過疎過ぎて不便だから中央に移動するのだ。

迷惑料など言語道断だ、

あんたより先に住んでた人は、あんたが増えたことによって

不便になったのだ、その迷惑料はちゃんと払ったのか、

あんたより後に住む人は、あんたがいることによって

不便なのだ、その迷惑料はちゃんと払えるのか。

お互い様だ。

 

・保育園のあるところで働くべき。

→誰もが保育園の近くで働けるわけではない。

そんなに都合よく就職先があるのならば苦労はしない。

やっとこ就職を見つけた先にたまたま保育園がなかったのだ。

職はある(税収はある)けど、保育園を作らない区政に問題がある。

もし、区が保育園を作るというのに反対するのは、

ごみ処理場を作るのに反対することや、

役所消防署警察署あらゆる公的な施設を建てるのに反対することに近い。

(働く人と育てる人が一致しなくてもよいならこの限りではない)

 

・子供は国の宝だ(だから何よりも尊いのだ)

公園を利用できることより、区の税金より、地域住民にかかる迷惑より、

(自分がその就職先しか選べなかったことによって、)

うちの子が保育園に通えないのはおかしい。大変さを理解するべし。

確かに子は尊い、

誰の子でもある程度尊い。

親が働きもせず、税も納めず、愛も注がず育てるような子でない限りは、

子には罪はないが、何の価値もない親から生まれる子に対しても、

公正平等に豪族のご子息と同様の保育、教育をすべし。とはいかないのだ。

一生懸命働いているお父さんお母さんの子供こそ尊い。

 

やれ子育て支援よこせ、子供手当よこせ。足りん。

という声は無視していい。どうせ酒かたばこかギャンブルか

どうでもいいギャンブルに消えるのだ。

 

一生懸命働いているお父さんお母さんがほしいのは金ではない

時間なのだ。

家政婦雇えとか、ばーちゃんに見てもらえという声もあるかもしれないが、

その効率の悪さや独善性の欠点を補うための公的な保育施設のはずだ。

 

親が権利として訴えるような施設ではなくて、

働いてくれてありがとうと区が差し出すような施設であるべきだ。

 

 

過密したせいで被る害が、たまたま誰かに集中していて、

その害が分散することをイヤイヤと言っているのだ。

 

マジョリティがマイノリティを圧迫している。

 

そもそも過密する原因を作っているのは、

中央に有利な政治とそれを支持した中央の有権者だ。

 

これまたマジョリティがマイノリティを圧迫している。

民主主義の弊害のようなものだ。

おもみづけ

何が重要で何が重要じゃないか。

 

会議に遅れそうだから線路に飛び出す。

招致のために3億払う。

オークションで美術品買う。

 

当人にとっては重要な理由があるらしいが、

周りのヒトにとっては理解し難い

 

ハインツのジレンマなんかが出てくるが、

こちらよりもこちらのほうが重要である。

というのはどう決めるのか。

 

こちらには、これとこれとこれのメリットがある

同時にこれこれこれのデメリットがある

 

こちらには、これこれこれのメリットがある。

同時にこれのデメリットがある。

 

それぞれに書き出すことはできるが、

それではその一つ一つのメリット・デメリットの重さはどう測るのか。

 

定量的に測れるものならそれで良いが、

測れないものもあるように思う。

 

地球と命はどちらが重いか

地球がないと今のところ命はないが、

地球のためなら命を投げ売っていいのか。

 

地球のためといいつつ、実際には人間のためであるところが大きいが、

その他の動物にも影響をあたえるところ大きい

 

植物と動物の命はどちらが重いか

ヒトとその他の動物の命はどちらが重いか

 

科学と宗教はどちらが重いか

数学と物理はどちらが重いか

倫理と道徳はどちらが重いか

iPhoneとゼンフォンはどちらが重いか

 

目的がなければ決められないことも多い

 

人類のために、そのヒトのために、地球のために、

日本のために、東京のために、家族のために、

 

そこでもう一度重みづけが出てくる。

人類にとっては宗教が重いが日本にとっては科学が重い

 

とかいう意見が出てきた場合。

日本を軽く見て良いのか、人類に寄り添うべきなのか。

 

そこでマイノリティの問題が出てくる。

その他大勢ためになる、そのヒトに害になること

 

パーフェクトに全人類全世界にとって重いかどうかを

判断できることは本当に一握り。

 

私はこう思う。俺はこう思う。

というのはその人の考えていることで、

ケチのつけようがない。

 

何らかの指摘をして、考えが改まることもあるかもしれないが、

考えが変わるかどうかもその人次第だ。

 

自分の考えとヒトの考えの重さを平等にはかれることは大事かもしれない。

 

 

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わかるとはどういうことか

「わかるってどういうこと」

という疑問をもらった。

 

知るかわかるとかできるとか、

微妙に似ている言葉もある

 

 

分かるって言うことはどういうことなのかを

考えるときに、必要不可欠なのが他者の存在のように思う

 

わかった、理解した、コナンくんのキューンと糸が通るあのエフェクト

のようなものを感じた時、それをわかったと自分だけで感じることはできるかも知れない

 

しかし、他者と会話をしている中で、話が噛み合わない時もある。

それをわかったかわかってないかを察知したかどうかでも

わかったかわかってないか変わってくるが、

自分一人でわかったと思った瞬間があったとして、

それを他者と会話してみると実際には分かっていなかったということがあるかもしれない。

 

とはいっても、誰にも理解されなくても、自分の中ではわかってる

ということが少なからず存在するように思う。

暗黙知的なことを表現するときに、バスケを持ち出したくなる。

左手は添えるだけ、とかいいつつも、

本当に添えるだけなら左手はいらないはずで、

添えつつボールに対して何らかの仕事をしているのであれば、

その力は何ニュートンなのか、

というあたりまで突き詰めていかないと、

 

左手は添えるだけ

という概念を理解しているとは言えないように思う、

しかも実は人それぞれちょっと違うかもしれない。

 

というのを、ヒトと違うからそれは分かったではないということではなくて、

それは、自分の中の違う時間軸での感覚と比較して、

これがが丁度よいというのを、研ぎ澄ますうちに、分かる

 

という瞬間が来るようにも思う。

 

 

 

はじめに他者が必要と述べたが、

相手がいない場合では、時間軸を交えての比較対象としての自分が必要である

と言える。

 

 

他者という言葉を使わないことにすると、

 

共通の認識をする。

という感じだろうか。

 

認識する。というのも、適当な言葉だが、

 

何かを知覚し、記憶にとどめ、他の知覚や記憶と比較し、

差異や類似点を見つけて、その他の知覚や記憶との輪郭を露わにすること。

 

という感じだろうか。

 

 

そんな疑問をもらった時に、

相手にどう返したかは正確には覚えていない

 

わかるがどういうことなのかわからないのに、

他人がわかったかどうかを判断することはできない。

 

そう思って頭から離れない

○○は××

 

殆どのことは○○は××

という、主語と述語のようなもので表すようになっている

 

というこの構造はなぜなのか。

 

英語にも中国語にも、何らかの主語のようなものがあって、

それをが何であるか、という述語のようなものがある。

 

タイム・イズ・マネー 時は金なり 一刻千金

 

どんな言葉の地域にうまれてもそんな感覚が身につくのが人間のさがなのか。

Cでもアセンブリでもオブジェクトでもなんかがあって、

それがどうするかを書く

 

何かがあって、それが何かを説明する

というこの形態自体に、

違う形はないのだろうか。

 

言葉にするからそうなってしまうのではないか。

絵だったら、

音だったら、

 

ピカソの絵を見て、

ああ、これは××だな とか、

モーツァルトを聞いて

ああ、これって××だな とか、

 

言葉に置き換えることはできるけれど、

実は言葉ではすくい取れていない何かが存在するように思う。

 

私が言葉を使ってるから、今ある枠組みで捉えようとするから、
全くその域から出ることはできない

 

しかし、本能とも呼ぶべき場所には、

言葉なしにそれを感知しているのではないか

 

視覚は電磁波、聴覚は音波、味覚・嗅覚は化学物質、触覚は摩擦や硬さを

それぞれ電気的な信号に乗せて脳に送っているが、

 

それらを統括するシステムとしての

ヒトの意識や無意識の中には、

今ある言葉のようなものでは表せないようなものがあるように思える。

 

なんだかそういう、しっかり表せないものに会った時に、

比喩とか使って知ったような気分になる。

 

 

目の見えないヒトに空の青さをどう伝えればよいのか、

盲ろう者に、モーツァルトの素晴らしさをどう伝えればよいのか、

 

 

 

ネットが発達して、何でも情報が手に入る時代で、

本当に学ぶべきは、こんなことばにならないことの中にあるように思う

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